プールを作る造園家が誕生する経緯

はじめまして。ドリームガーデン株式会社 代表取締役の田村大(ひろし)です。1972年に造園業の2代目として生れ、「宇宙発の100年地球旅行」を楽しみながら日々を過ごしています。人生やビジネスの成功者との多くの出会いを通じて自己成長を遂げました。これから出会う方々に人生を楽しむ方法を伝えつつ、大好きなづくりに励んでいます。どうぞ私の経歴インタビューをご覧ください。最終編集日:2025年2月10日
Q 木登りが得意な少年だったって本当?
はい、本当です。私は造園業の家庭に生まれたので、庭にはたくさんの木がありました。木登りが好きで、どんな木にもよじ登っていました。通っていた小学校では全員が裸足で生活するという習慣があり、私のような友達もたくさんいました。
Q 小4で現場で働いたって本当ですか?
小学校4年生の頃から家業を手伝っていました。地下足袋を履き、休日には現場に出て、1日1,500円の給料をもらいながら働いていました。当時は特に深く考えず、ただタミヤのRCカーを買うために働いていたのかもしれません。
現場のお客さんに「いい跡取りになるね~」と言われ、「はい、日本一の造園屋になりたいです!」と答えると、「じゃあ、お小遣いをあげるね」と言って3,000円くらいいただき、ますます現場が楽しくなりました。
Q 中学時代に毎日腕相撲って本当ですか?
造園の仕事を手伝っていたおかげで腕力が強く、学校では毎日のように腕相撲を挑んでくる同級生がいました。彼らを打ち負かすのが日課で、一度も負けたことがありませんでした。
Q 友達の一言で人生が変わったって聞きましたが?
中学時代のある日、廊下にテストの成績が貼り出され、それを見たサッカー部の同級生に「造園って勉強しなくてもできるからいいよね!」と言われ、その一言に大きなショックを受けました。自分の尊敬する父親を侮辱されたと強く感じ、そこから真剣に勉強に取り組むようになりました。そして、「しっかり学んで大学に進学しよう」と決意し、進学高を目指し無事志望高へ進学できました。
Q 腕相撲が負けたのが理由って何それ?
高校では、「音楽の通信簿が5になる」という誘い文句につられて、オーケストラ部に入りました。コントラバスを担当し、11月3日の定期演奏会に向けて猛練習していました。
定期演奏会の1ヵ月前、同じクラスのラグビー部・川島君が筋トレをしていると聞き、腕相撲の勝負を挑みました。余裕で勝てると思っていましたが、まさかの敗北。とてもショックでした。
その後、定期演奏会は無事成功し、翌日にオーケストラ部を退部してラグビー部に転部。通信簿の成績は、音楽が3、体育が5となり、結果的に±0でした。
オーケストラ部からラグビー部ってどんな感じだった?
オーケストラ部は女子率90%で、まるで花園のような環境でしたが、ラグビー部は花園(全国大会)を目指す地獄でした。まさに『スクール☆ウォーズ』の世界で、当時のことはいまだに夢に出てきます。
1つ上の先輩が5月の大会後に引退し、ついに私たちの天下がやってきた…と思った瞬間、なぜかOBの小里さんという恐ろしい先輩が監督として現れました。毎日生き延びるだけで精一杯で、本当に生きて帰れたことが奇跡でした。
そんな過酷な環境でしたが、負けてばかりだったラグビー部も、やがて「勝利をつかみ取る喜び」を味わうことができました。
Q ラグビー引退後は?
5月の大会で4回戦まで進み、ラグビー部を引退。受験モードに入るはずでしたが、なぜか生徒会役員の道を選んでしまい、秋の学園祭に全エネルギーを注ぎました。
充実した青春を送り、高校生活を満喫した結果、現役での大学合格とはならず、1年間の浪人生活を経て東京農業大学へ入学しました。
Q どんな大学生でしたか?
東京農業大学に入学し、造園を学びました。世田谷区にある農大からわずか400歩の距離にある、風呂なしのボロアパート「みつる荘」で暮らしていました。
ローバークルー部というボーイスカウト系のクラブに所属し、登山やキャンプ、ボランティア活動を通じて日本各地を旅しました。こうした経験から、いつか自分のキャンプ場を作りたいと思うようになりました。
3年生になると樹木学研究室に所属し、多くの調査や研究に取り組みました。
Q アルバイトで鳶職って怖くないの?
突然、優しそうな声の男性から電話があり、「田村君~。○○建設の現場で見かけたよ~。アルバイトしない~?」と誘われました。当時金欠だったこともあり、恐る恐る翌朝、高井戸にあるその会社へ向かいました。
「すみません、相田社長はいますか?」と声をかけると、事務所の奥にミスター・サタンそっくりの人物が座っていました。昨日、優しそうに電話をかけてきた本人です。
作業着のニッカポッカを支給され、怖そうな職人さんたちと一緒にトラックで現場へ向かいました。担当したのは足場を組む仕事です。11時半になると職人さんが「飯行くぞ!」と言い、定食屋かラーメン屋かなと思いきや、まさかのデニーズへ。地下足袋にニッカポッカ姿で入店できることに驚きました。さらに、職人さんたちは当たり前のように1人で2人前を注文し、「お前たちも好きなものを食え」と言ってくれました。「すみません、お金がなくて……」と遠慮すると、「会社の経費だから心配するな」とのこと。見た目は怖い人たちでしたが、実はみんないい人ばかりでした。
ある時、ミモさんとマモさんという兄弟職人が助っ人に来ました。家の上棟(建て方)の際によく呼ばれていたのですが、ご祝儀目当てだったようです。特に弟のマモさんが強烈なキャラで、「俺さ、津でタンス作ってたんだ」と自慢げに語っていました。感心して聞いていると、兄のミモさんが笑いながら一言。
「その津ってな、刑務所のことだよ。アハハ……。」
別の日、マモさんは「東京都庁、あれ俺が作ったんだよ!」と豪語。しかしすかさずミモさんが、「最後の掃除だよな」とツッコミ。そんな豪快な職人さんたちに囲まれた日々でした。
言えないこともたくさんありますが、とても貴重な経験になりました。
バイト代を使って冒険に行ったって本当?
なんとか10万円ほど貯め、格安航空券を手に入れてアメリカへ旅立ちました。ちょうど1ドル75円というハイパー円高の時期だったこともあり、少ない資金でも十分に旅を楽しむことができました。
レンタカーを借りて、たくさんの国立公園を巡り、ラスベガスにも立ち寄りました。そこで、さらに大きな衝撃を受けたのが、「アメリカでは庭にプールがあるのが普通」という事実です。

日本では、庭といえば樹木や石を使った和風庭園が主流でした。しかし、アメリカの庭はまったく異なるものでした。この発見は、私の造園に対する価値観を大きく変える出来事となりました。
Q 大学卒業後はどうしたの?
大学時代も長期休暇のたびに、家業である田村造園を手伝っていました。ただ、仕送りをもらっていたため、バイト代はなし。
就職活動の時期になると、父の体調が悪化しました。私は外で修行を積むつもりでしたが、家業を継ぐために実家に戻ることを決意。しかし、戻ってみると父の体調はすっかり回復。実は仮病だったのです。
家業に就いてからの仕事は、想像以上に厳しいものでした。バブル崩壊の影響で、庭を維持できなくなった人たちからの依頼が増え、庭を作るよりも解体する仕事のほうが多かったのです。
大学で学んだ造園の知識を生かすことができず、苦悩する日々が続きました。
Q 悔しい想いを聞かせてください。
そんな時、農大には「茨城県緑友会」というOB会があり、OBの先輩の誘いで入会しました。
ある時、「田村君は何をしているの?」と聞かれ、「一般の方の庭仕事をしています」と答えると、「なんだ、旦那場(だんなば)か」と、まるで格下のように扱われた気がしました。OBの先輩方は公共工事がメインで、大きな金額の仕事をしていたためです。
そんな中、親切な先輩から「田村君も公共工事をやってみたら?」と声をかけられ、興味を持って書類を提出し、役所へ名刺を配りに行きました。すると、やがて指名競争入札の連絡が届きました。
しかし、その直後に一本の電話が。
「今回の○○公園緑化工事は、弊社が取りますので、1回目は○○円、2回目は○○円と記入してください。」
この世界のルールを知らなかった私は、入札会場へ向かいました。すると、会場外の廊下で電話をかけてきた造園会社の営業担当が「入札金額を確認しますので、見せてください」と言ってきました。私は言われるままに応じましたが、心の中では「こんな茶番に付き合っている暇はない」と強く思いました。
入札が終わるとすぐに契約課へ行き、「もう、水戸市の入札には参加しません。指名もしなくて結構です!」と伝え、きっぱり辞めました。
Q 役所を敵に回して仕事は大丈夫だったの?
自分が設計した庭を自分の手で作りたいと思っていたので、後悔はなく、むしろスッキリしていました。
そんな頃、高校のラグビー部時代の友人がホームページ作成の営業にやってきました。2002年頃、まだISDN回線の時代です。営業がしつこく、仕方なく依頼しました。少し楽しみにしていたのですが、完成したホームページはたった4ページのカッコ悪いサイトで、問い合わせはひとつも来ませんでした。
それでも毎月のサーバー代を払い続けるのがもったいなくなり、ケーズデンキへ行き、「ホームページビルダー」を購入して自作してみることにしました。すると、1件、2件と問い合わせが入り始め、仕事が途切れることなく続くようになったのです。
そんなある時、お客様から「造園って敷居が高くて、問い合わせるのが怖かったです。」という言葉を聞き、「もっと気軽に相談できる造園業を目指そう」と決意。そこで「ドリームガーデン」という名称を使い始めました。こうして、有限会社田村造園の『ドリームガーデン部』が誕生したのです。
Q それでドリームガーデンはどうなったの?
現場が完成するたびに施工例をホームページに掲載しました。「造園は敷居が高い」と言われることが多かったため、外構やエクステリアを前面に押し出したところ、反響が増えていきました。
そんな頃、設計ソフトメーカーのRIKから連絡があり、「今の取り組みを全国で講演してもらえないか?」と相談を受け、引き受けることにしました。
全国を講演で回る中で、多くの同業者やエクステリアメーカーの方々と知り合うことができました。ある時、広島県の「我楽庭」の行正社長が水戸に来て、「ここにはココマじゃな。」と言い残して帰っていきました。意味が分からず調べてみると、TOEX(現LIXIL)の「自然浴」というジャンルの中に、「ココマ」というガーデンルームがあると知りました。
すぐに高井戸のTOEXショールームへ行き、実際に「ココマ」を見てみると、その魅力にすっかり惹かれ、展示導入と取り扱いを即決しました。
ココマを展示すると、少しずつ売れ始め、やがてTOEXの営業担当者から「施工コンテストに応募しませんか?」と声をかけられました。エクステリア業界は「西高東低」と言われ、関東の底上げをしたいという意図があったようです。
**腕試しのつもりで応募したところ、全国で銅賞を獲得し、東京の表彰式に招待されました。**関東地区では最高位の受賞で、多くの方に祝福されましたが、幼い頃「日本一の造園屋になりたい!」と言っていた自分にとって、銅賞では満足できませんでした。
そのため、表彰式のコメントで**「来年は金賞を取ります。」**と宣言しました。
そこから思考が変わった
それ以来、毎晩ベッドの中で表彰式の光景を思い描き、金賞の賞状を右手で受け取るか、左手で受け取るかまで考え続けました。そして、翌年のコンテストで奇跡が起こります。
なんと、金賞・銀賞・銅賞2つ・入選2つの計6つの賞を受賞! さらに、その後も勢いは止まらず、金賞を4年連続受賞することとなりました。
Q 事業継承後に東日本大震災に遭ったそうですね?
ホームページでの集客やコンテストの影響もあり、次々と依頼が舞い込むようになり、2011年2月に事業承継を行い、有限会社田村造園からドリームガーデン株式会社へと生まれ変わりました。
しかし、そのわずか2週間後、東日本大震災が発生。水戸の震度は6強で、町中が大きな被害を受けました。
震災後は改修工事の依頼が殺到し、売上がどんどん上がっていく状況に、戸惑いを感じる日々が続きました。
そんな中、「震災で困っている方々に何かできないか」と考え、震災から2ヵ月後、ソフトクリームの機械とワーゲンを用意し、津波の被害を受けた気仙沼や南三陸の避難所へ何度も訪れ、ソフトクリームを配る活動を始めました。
この活動には、全国の仲間たちから義援金をいただき、それを活動費用として使わせていただきました。
Q プールを始めるきっかけは?
震災から3年ほど経った頃、当時私が理事を務めていた「犬と住まいる協会」のイベントに、「プール屋です。」という、何とも怪しげな2人組が現れました。
その帰り道、スーパーひたちの車内で、2つの記憶がよみがえりました。
1つ目は、小学4年生の頃の夏休み。
「プールが欲しいな~」と父に言うと、「25mのプールなんて簡単に作れるぞ。待ってろ。」と言われ、私は大喜び。興奮して近所の友達に話しました。しかし、いくら待ってもプールは作られず、最終的には「嘘つき」呼ばわりされた苦い思い出がよみがえりました。
2つ目は、大学時代のアメリカ旅行。
ラスベガスでタクシードライバーから**「アメリカでは庭にプールがあるのが普通だよ」**と言われ、日本では考えられないその事実に驚きました。
それからしばらくして、スマートフォンが登場した後、**Google Mapでラスベガスの住宅街を改めて調べてみると、本当に庭にプールがある家ばかり。**その光景に衝撃を受けました。
そして次の日、あの「プール屋」の人に連絡を取り、幕張にあるショールームへ行く約束をしました。
Q そのプールについても少し教えてください。
11月の小雨が降る夕方、幕張の工場地帯にあるショールームを訪れました。プールを目にした瞬間、それまでのすべての経験と思考が一致し、「これだ!」と確信。すぐに取扱いができないか相談しました。
運よく、ちょうど提携店を増やしていきたいというタイミングだったこともあり、ディーラーとしての契約を結ぶことができました。
翌年(平成27年)、ショールームの大改装を行い、「プールのあるホームリゾートガーデン」という新しいコンセプトを広める事業をスタート。同年中にプールの販売には至りませんでしたが、翌年(平成28年)、ついに記念すべき第1号のプールを販売することができました。
さらに、時代は令和へと移り、今度は大型プールの依頼が舞い込んできました。しかも、プール単体ではなく、グランピング施設の設計施工を含む大型プロジェクトです。
この経験が大きな転機となり、令和3年にはFINE GLAMPING株式会社を設立するに至りました。
Q FINEGLAMPING株式会社についてもう少し教えてください。
執筆中です
■地球を楽しく生きるガイドブック
成功者との多くの出会いから学んだ誰にも使える田村の思考法